2015年9月25日金曜日

おれんじ鉄道

先日、子どもたちと「おれんじ鉄道」に乗りました。

特に目的もなく、ただ「列車に乗って遠くへ行ってみよう!」という
ゆる〜い遠足です。

なぜ「おれんじ鉄道」かというと…
一番のんびりできそうな気がしたから。というか、
やっぱり車窓からの眺めが魅力的だったから。
今の季節、黄金色の田んぼの脇に咲く深紅の彼岸花も
楽しめるんじゃないかな、と思ったからです。

それと、阿久根駅に行ってみたかった。というのもあります。

というわけで、子どもたちもリュックを背負って
まずは市電に乗って鹿児島中央駅へ。
そして川内駅でおれんじ鉄道に乗り換え。

たどり着いた阿久根駅。リニューアル後、初めて来ました。
駅全体がとってもおしゃれに変身しているじゃありませんか。


気になっていたキッズルームは…

まるで小さな小さな「おもちゃ美術館」のようです。

グッド・トイがいろいろ置いてありますよ。


うちの子どもたちも大喜びで木の砂場に飛び込んで遊んでいました。

でも残念なことに、ひっつきむしの虫たちが無くなっているようです。
ひっつき棒は壊れているし、どんぐりころころの坂も見当たりません。

別のおもちゃの板を坂に見立ててどんぐりを転がして遊んでいたら
一緒に遊んでいた家族のお母さんが、「こうやって遊ぶおもちゃだったんだね〜」
と呟いていました。

そうよね。どんぐりだけ置いていてもわかんないですよね…。

東京おもちゃ美術館で、おもちゃで遊ぶ部屋に必ず「おもちゃ学芸員」が
いたことを思い出しました。

なんとなくモヤモヤしながら我々は阿久根駅を出発し、
なんとなく出水駅まで行き、そこでソフトクリームを食べながら
「そろそろ帰ろうか」と提案したところ、息子が
「芋堀りは?」と悲しげな表情で訴えてきました。

秋の遠足=芋掘り。だったのですね、彼にとっては。

よし次はシャベルを持って芋掘り遠足に行きましょうか。

2015年8月3日月曜日

小さき者

この夏、我が家にやってきた数匹の「小さき者」たち。

それは、庭の檸檬の木についていた「はらぺこあおむし」なのですが、
その中の一匹が脱走しました。

一生懸命探すのですが、なにしろ小さい。
もう見つからないかもね、と思っていたら……
(以下にあおむしの画像あり。嫌いな方は見ないでね)

いましたよ! ここに↓


見えますか?
南半球、クック諸島の近く。




ほら、いた。



小さいのに冒険心あふれるあおむし君。
大きく育って、立派な蝶になるのだよ。


Out on the ocean sailing away,
I can hardly wait to see you to come of age.
But I guess we'll both just have to be patient.
'Cause it's a long way to go a hard row to hoe.
Yes it's a long way to go but in the meantime.

Before you cross the street take my hand.
Life is what happens to you while you're busy making other plans.

Beautiful beautiful beautiful beautiful boy.

2015年7月23日木曜日

ミニバッグを作ってみました

友人が編んでいた夏用のカゴバッグがとっても素敵だったので
私も真似して編むことにしました。

でも初めてなので、練習用にまずは娘のミニバッグ。
糸3玉で、意外とすんなりできました。



ほら、いい感じ!
娘も喜んでます。練習用というのは内緒です。

子どもって、実は自分の荷物は自分で持ちたいんですよね。
ハンカチとティッシュと、お気に入りのお人形とか
散歩の途中で拾ったきれいな石とか。

大人からみると、なんでそんなものを?
と思うようなものも大切な宝物だったりするわけで。


さて、自分用のバッグも早く仕上げなきゃ。
もう夏本番ですもんね。

2015年7月3日金曜日

「赤ちゃんはなぜ泣くのか」

子どもができて嬉しかったり楽しかったりするものの、
たまには「もうイヤっ」と思うことだってあるのです。人間だもの。

そんなとき、
子育ては修行なのだ。滅私の心だ。
と唱えながら乗り越えたり、乗り越えられなかったり。

そんなこんなで手さぐりの子育てをしていて
気づいたら娘はこの春小学生になっていました。

過ぎてしまえば、乳幼児だった時期が愛おしい。
親ってみんなそんなもんなのでしょうか?

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「赤ちゃんはなぜ泣くのか」(南日本新聞「南点」 平成26年6月20日掲載)

 38歳で初めて娘を出産するまで、私は赤ちゃんのいる生活というものを理解できていなかった。出産後、娘と初めて同室になった夜、泣き続ける娘をあやしながら睡魔と闘うも数時間でギブアップ。看護師さんに娘を預けて眠りに就いたという「へなちょこ母さん」だった。

 娘はよく泣く赤ん坊だった。抱っこしながら寝かしつけた娘を布団に下ろそうとした途端、はっと目を覚ましてはワンワン泣く。看護師さんから「泣いたら授乳するように」と教えられていたのだが、泣くたびに授乳していたのではずっと抱きっぱなしではないか。他の子はここまで泣かないのだろうかと疑問に思いながら、娘を泣かすまいと一日中抱き続けた。

 赤ちゃんが泣くのには理由がある。お腹がすいたり、おむつを替えて欲しかったり、不快な状況を改善してもらいたいときに泣いて誰かを呼び寄せる。確かにそうだ。しかし娘は、たっぷり授乳しても、おむつを替えても満足してくれなかった。お腹も空いてない、おむつも濡れていない赤ちゃんがなぜ泣くのだろう。

 人は「誕生時から他者との結びつきを求めようとする脳がそなえられたのです」と、早稲田大学文学学術院の大藪泰教授は、著書「赤ちゃんの心理学」で述べている。生まれてすぐに大声で泣く「産声」も人間特有のものらしい。自然界では、誕生時に大声をあげることは自らの命を危険にさらす行為。それでも人間の赤ちゃんは、泣くことで母親と触れ合う機会を作り出そうとする。よく泣いていた娘も、へなちょこ母さんにかまってほしくて泣いていたのだ。

 外界の刺激を五感で受け止めながら成長していく赤ちゃんにとって、他者とのコミュニケーションはヒトとしての発達に欠かせない「心の栄養源」である。いや、赤ちゃんに限ったことではない。いくつになってもヒトは他者との関わりの中で成長する、そういう生き物だ。不惑の歳を過ぎて、子どもたちに振り回されながら「ほどよい母さん」を目指す私もそうだ。

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2015年6月15日月曜日

「勝負の手ごころ」

毎日毎日、言い争いをしている娘と息子。
だいたい、どちらかが泣き声で「お母さ~ん」と
助けを求めてくるのですが、話を聞けばどっちもどっち。

以前、尾木ママの講演会で、

「例えば、兄弟喧嘩が始まったとき、『こらっ!』と怒るのではなく
『どうしたの?』と優しい声で聞いてあげましょう」

と教えていただいたのですが、行うは難し。

「こらっ!」と叫んでから、いかんいかんと急に声色を変えて
「どうしたの~?」なんて言っているので、一貫性のない母の行動に
子どもたちが戸惑っているかもしれません。

まぁ、お互いの主張がぶつかってケンカするという経験も
幼い子供には必要だもの。
そうやって、手さぐりで人と人との付き合い方を学んでいるんだと
思うことにしています。

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「勝負の手ごころ」(南日本新聞「南点」 平成26年6月6日掲載)

 子どもたちとメモリーゲーム(神経衰弱)をしていたら、負けそうになった息子が「ずるい!」とぼやいた。「ずるくないよ!」と娘が応じる。そう、誰もズルなんかしていない。3歳になったばかりの彼の悔しさの表現が「ずるい」なのである。

 目の前で勝敗が分かれるテーブルゲームは、楽しいだけでなくトラブルに発展することも多い。だから、ゲームをする前に約束しておかなければならない。順番を守ること、途中でやめないこと等を全員で確認するのだ。ここで「面倒臭い」と思ってはいけない。私は、この作業が子どもとゲームをするときの一番大事なことだと思っている。

 息子の気持ちはよく分かる。末っ子だった私も家族でゲームをした場合、負ける頻度が一番高かった。ぶつぶつ文句を言っても、「ギを言うな」の一言で終わりだ。ちなみに、「ギを言うな」とは、薩摩藩で「詮議の後に文句を言うな」という意味で使われていた言葉らしい。

 詮議とは、みんなで意見交換しながら結論を出すこと。または、郷中教育で行われていた禅問答のようなものである。「船が難破したときに助けてくれた者が親の仇であった」「殿様から急用を仰せつかったが早馬でも間に合わない」そんなときどうするか、薩摩の子どもたちはお互い意見を出し合いながら問題の対処法を学んでいたのだ。西郷隆盛、大久保利通、大山巌、東郷平八郎などの偉人も、こういった場で倫理観や実践的な知恵を身につけていたに違いない。

 「兄と慕った相手を砲撃せよとの命令が下ったらどうする」。実際にそんな難問が待ち受けていた時代の教育である。現代にはそぐわない部分もあるかもしれないが、子どもたちが様々な問題の答えを模索するという経験は現代でも必要だろう。

 「弟が負けそうになって、悔しがっていたらどうする」。メモリーゲームを始める前に娘に聞くと、「間違えても、もう一回やっていいことにする」と答えた。負けず嫌いの娘がそんなことを言うなんて。こんなやりとりもテーブルゲームの楽しみの一つ。

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2015年6月1日月曜日

「雨でも雪でも」

5月の週末、2回ほど子どもたちと喜入のグリーンファームへ
遊びに行きました。

野菜の収穫体験やそば打ち体験など、とても楽しかったのですが
生憎2回とも、雨でした。

レインコートと雨靴、さらに傘をさしながら
畑でニンジンやタマネギの収穫をするのもどうかと思うのですが
子どもたちはそんなこと気にしないのです。

収穫が終わったら、子どもたちはアスレチック広場へ
走って行ってしましましたよ。雨なのに。

しょうがないので、子どもたちが遊び疲れるまで
雨宿りしながら待っていたら、風邪ひいちゃった。
子どもたちは元気なのに、私だけ。

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「雨でも雪でも」(南日本新聞「南点」 平成26年5月23日掲載)

 雨の休日、「公園で遊びたい」と言いだした子どもたち。「雨ですよ?」と言いかけて、何かの本で読んだフィンランドの子どもたちのことを思い出してしまった。フィンランドでは寒さのせいで外遊びを諦あきらめていては、冬の間ずっと外に出ることができない。だから子どもたちは防寒服を着て極寒の雪の中で遊ぶのだ。小雨ごときでひるんではならぬ…と思ったわけではないけれど、確かに一日中家の中では退屈だろう。近くの公園へ行ってみることにした。

玄関でレインコートと長靴に身を包むと、もうそれだけで子どもたちはうれしそう。誰もいない公園に着いた途端、キャアキャア声をあげながら遊びだした。古い映画で、男の人が雨に濡れながらバシャバシャとうれしそうにダンスするシーンがあったが、まさにそんな感じだ。

 1952年公開の「雨に唄えば」は、無声映画からトーキーへと移行する時代の映画界を舞台にしたミュージカル。クスリと笑えるユーモア、名曲と楽しいダンスのオンパレードで今なおファンが多い不朽の名作だ。

 話の途中で突然歌い出すミュージカルに戸惑いを感じていた頃もあったけれど、子どもと一緒に観るならミュージカルはぴったりだろう。「オズの魔法使い」や「メリー・ポピンズ」など、親子で楽しめる名作は数えきれない。なにより、子どもたちは歌が大好き。昔から、毬つきをするときも、縄跳びをするときも、どちらにしようか決めるときも歌を歌っているのだから。

 雨の公園もいいけれど、こんな日は映画を観ながら歌うのもいいんじゃないかな。そんなことを考えながら公園ではしゃぐ子どもたちを眺めていたら、はしゃぎすぎた息子が水たまりに倒れ込んだ。小雨ごときと見くびってはならぬ…。びしょ濡れの息子を大慌てで連れて帰りながら、フィンランドには住めそうもないなと悟った。

 しかし、もし鹿児島に雪が降ったらフィンランドの子どもたちとは逆の理由で外に出たがるんだろうな。そして、歌いながら雪だるまを作るんだろうな。

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2015年5月29日金曜日

「ツルのジレンマ」

少子化解消云々、働く女性応援云々…。
なんだかよくわからないのです。

例えば、
たくさん子どもを産んでも、保育園がしっかり面倒みますよとか。
たくさん子どもを産んだら、お金がもらえますよとか。
どうもしっくりこないのです。

皿に入ったスープに困っているツルが
「食べにくかったらスプーンがありますよ」とか、
「冷めたらまた温めますよ」とか、
言われているような感じ。

いや、たぶん「皿」がいけないんです。
「壷」にして欲しいんです。


イソップ寓話の「キツネとツル」。
いじわるなキツネだなと思っていたけど
仕返しするツルも、ちょっと性格悪いかも。


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「ツルのジレンマ」(南日本新聞「南点」 平成26年5月9日掲載)

 今年度、幼稚園のPTAの仕事を引き受けた。引き受けた後で、町内会の班長の当番年度であることがわかった。日々の家事や育児だけでも四苦八苦しているのだが仕方ない。やってみれば案外面白いかもしれないと前向きに取り組むことにした。

 PTAや町内会の会合に顔を出すと、出席者の9割以上が女性である。PTAや地域活動に協力的な男性もいらっしゃるとは思うが、ほとんどの男性は働きながら先のような活動に参加するのは無理なのかもしれない。しかし今の時代、働く女性も少数ではない。「『PTA活動のために休みます』と職場に言いにくい」「仕事と家事で手いっぱい」とは、働く母親たちの共通の思いだろう。

今から100年近く前、与謝野晶子や平塚らいてう等は「母性保護論争」を繰り広げた。「婦人はいかなる場合にも男子や国家に依頼すべきではない」と主張する晶子も、「国家は、妊娠、出産、育児期の女性を保護する責任がある」と反論するらいてうも、女性として母としての社会的・経済的地位の向上を目指している点は同じだ。

 1986年に男女雇用機会均等法ができ、女性が働くための門戸は広くなったものの、未だに母親がフルタイムで働こうとしたときのハードルは低くない。なんだか、イソップ寓話「キツネとツルのごちそう」で、皿に入ったスープを勧められているツルのようだ。私自身、少々独身時代が長かったせいか「キャリア志向?」と聞かれたことがあったが(もちろんそんな理由で独りだったわけではないし、たいしたキャリアもない)、仕事か家庭かで悩む女性がいるというのも事実なのだろう。

 働くということが、仕事以外の諸々を引き受けてくれる誰かの存在を前提としているのなら、それもまた一種の依頼主義。子育てや親の介護をしながらでも働ける仕組みが実現すれば、長時間労働などの問題も解消できそうなのだけど。キツネもツルも使いやすいユニバーサルデザインの器は考案できないのだろうか。

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