2015年4月28日火曜日

「芽生えのころ」

4月は息子の誕生月。
卯年の卯月に彼が生まれたとき、「啓」という漢字をプレゼントしました。

「卯」は門が開く様子を表した象形文字だと知って、
「ひらく」という意味の文字を名前に使いたかったのです。

さて、昨年4月11日の南点ですが、なんだか唐突に金星の話が
挿入されていますね。こじつけっぽいかなと思いつつ
4月だし、やっぱり「啓」の字を使いたかったわけです。

ちなみに、レイチェル・カーソンが亡くなったのは1964年4月14日。
昨年は没後50年に当たる年でした。


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「芽生えのころ」(南日本新聞「南点」 平成26年4月11日掲載)

  4月は英語でApril。これはギリシャ神話の女神アフロディーテ(Aphrodite)に由来するという。確かに、花々が咲き乱れ、生命の息吹が際立つ春は美の女神にふさわしい。子どもたちと外へ出かけるのにも最適な季節の到来だ。

子どもたちは散歩をしながら実に様々なことを発見する。散り始めた桜の花びらを追いかけ、歩道の隙にタンポポを見つけてはしゃがみこみ、そこに通りかかった小さなアリに目を奪われ…、彼らとの散歩はなかなか前に進まない。急いで帰りたい状況であれば、ついつい「早く行こう!」と口走ってしまいそうだけれど、大人にとっては何気ない風景にいちいち立ち止まって興味を抱く感性こそ、子どもが生まれながらに持っている宝物の一つに他ならない。

 著書「沈黙の春」で環境問題を指摘した生物学者レイチェル・カーソンは、遺作「センス・オブ・ワンダー」で、「『知る』ことは『感じる』ことの半分も重要ではない」と語っている。教科書を暗記するより、日々の暮らしの中でリアルな自然の神秘に目をみはる豊かな感受性を育てれば、おのずと「もっと知りたい」という探究心が生まれてくるというのだ。

  例えば、明けの明星、宵の明星と呼ばれる星がある。現在では小学生でもこれらが同じ星だと知っているだろう。中国では太白星とも呼ばれる星だが、古い時代には明けの明星に「啓明」という別の名がつけられていた。これらが一つの星であることを突き止めたのはピタゴラスといわれている。彼はどうやってその事実を知ることができたのだろう。一つだけ確かなのは、どちらも見上げた人が興味を抱かずにはいられないほど美しい星だということだ。だから西洋ではこの星も美の女神ヴィーナスの名で呼ばれているのだ。

  知りたいと思う気持ちさえ芽生えれば何を学ぶべきか見えてくる。キッチン菜園は失敗続きの母だけど、せめて子どもたちの興味の芽は枯らさないようにしたいと思う春である。

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2015年3月27日金曜日

「弁当上手への道」

冷凍食品を温めて詰めるだけの弁当ですら、
どうして手際よく作れないのだろうと嘆いている母です。

世のお母さま方が作ったキャラ弁の写真を見ては、
そのクオリティの高さに「ひょえー!」と驚いている一人です。

ちなみに、先月、私がお別れ遠足用に挑戦して
子どもたちに好評だったキャラ弁は、ベイマックスおむすび。
顔のみ。

そんな母に似ず、器用な子どもたちは、6歳と3歳にして
(材料を計ってあげれば)クッキーが作れるようになりました。
まるで粘土あそびのように、いろんな形を作ってくれます。

そんな彼らを眺めながら、やっぱり料理は表現活動なんだなと、
思うわけです。

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「弁当上手への道」(南日本新聞「南点」 平成26年3月28日掲載)

 娘が幼稚園へ入園するとき、私の一番の心配事は「弁当」だった。娘の幼稚園は毎週金曜日が手作り弁当の日。恥ずかしながら、それまでまともに弁当を作ったことがなかったのだ。

 ずっと、料理は不得手だった。結婚を機に、どうにか毎日の食事は作れるようになったものの、朝の忙しい時間に数種類のおかずを用意して「かわいく」盛り付けるという芸当が自分にできるか自信がなかった。初めての弁当は前夜から作りはじめた。

 自分自身の反省もあり、娘には早いうちから料理を手伝ってもらっている。といっても食育を意識してというより、どちらかというと苦肉の策だった。娘は私が台所に立つと、一緒に遊ぼうとまとわりついてくる。これでは食事が作れない。それで、3歳になったばかりの娘に包丁とまな板を用意した。ままごと遊びのように「料理ごっこ」をしようと考えたのだ。娘は大喜びだったが、その代わり私一人で作るときの倍以上の時間がかかるようになった。最近では、息子も「手伝う!」と走り寄ってくる。料理が不得手だった母は、そんな彼らと一緒に料理の楽しさを学んでいるところだ。

 このところ、児童が弁当を作る「弁当の日」を実践した小学校の話や、「弁当力」について書かれた本が注目されるようになり、子どもが弁当を作ることの意義を考えさせてくれる機会も増えた。小さな箱に季節感や郷土色を彩りよく詰め合わせて携帯する弁当は、日本の食文化を語るうえで外せないカテゴリー。今では「Bento」として世界の共通語にもなりつつある。あの箱には、食材だけではなく日本人の美意識や家族を思う気持ちも詰め込まれているのだ。

 先日、今年度最後の弁当を作った。日本人の美意識を表現できるようなレベルには程遠いが、娘が毎回弁当箱を空っぽにしてくれるのがありがたい。「お弁当できたよ」。起きてきた娘に声をかけると、「お母さん、今日は午前保育だよ」との返事。

 スケジュール管理も不得手な母である。


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2015年3月13日金曜日

「苦しい時こそ成長の時」

卒業シーズンですね。
明日は幼稚園の卒園式。
昨日、娘はお別れするお友だちに手紙を書いていました。

この季節、卒業して進学したり就職していく若者たちの中には
自分の希望に沿わない結果を受け入れなければならない人も
少なからずいるんだろうなと…、
遠い昔を思い出しながら、そんなことを思います。

そして、「たまらなく好きなこと」さえ見つけることができれば、
人生の道筋は自ずと開けていくんじゃないかなと
今、しみじみ思います。

ちなみに、下記のコラムで「2006年、米国スタンフォード大学…」とあるのは
「2005年」の間違いでした。あぁ、恥ずかしい。

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「苦しい時こそ成長の時」(南日本新聞「南点」 平成26年3月14日掲載)

 「人生には、ときにレンガで頭をぶん殴られるようなひどいことも起こる」。2006年、米国スタンフォード大学卒業式のスピーチで、スティーブ・ジョブズ氏は学生たちにそう語りかけた。アップル社を創設し、若くして大成功を収めながら、その直後に自分で作った会社をクビになってしまった彼ならではの実感のこもった言葉だ。

 ジョブズ氏ほどスケールの大きなレンガではなくとも、不運や失敗に頭を小突かれることなんて人生の中には幾度もある。幾度もあるのだ。だからこそ、どうすればその時期を乗り越えられるのかを考えなければならない。ジョブズ氏は先のスピーチで、「将来、点がつながると信じること」、そして「たまらなく好きなことをみつけること」を揚げている。「点」というのは、本来の目的とは無関係に見える知識や技術のことだろう。


 ところで、毎日のように壁にぶつかりながら、日々、その壁を乗り越えていく人たちがいる。赤ちゃんだ。自分の体さえ思うように動かせない彼らは、常に今の自分を越えて新しい自分に到達しなければならない。つかまり立ちができるようになると、よろけたりひっくり返ったりするのも厭わず、自分の限界に挑戦し続ける。見ている方としては危なっかしくてヒヤヒヤするものだが、自分の力で一歩を踏み出したときの彼らの誇らしげな顔は、「もう赤ちゃんじゃない」という自信に満ちているようにも思える。


 赤ちゃんは努力しても無駄だとは思わない。その意欲が継続していけば、人はさまざまな困難にも積極的に取り組んでいけるだろう。失敗や壁にぶつかることは、喜ばしいことではないが、だからといって悲しむべきことでもないのだ。子どもたちにとって大切なのは、失敗しても時間をかけたり努力したりすることで克服できるという経験を積むことだ。そのために「想像力」と「遊び心」を育んでおかなければならない。これらは、人間が苦しい現実に直面したとき、それを越えていく原動力になるのだから。

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2015年3月2日月曜日

ごめんください。

娘が「お母さんのお店のレジで遊びたい」と言い出しました。
もちろん、本物のレジスターではなく、おもちゃのレジ。

娘のお店屋さんで買い物をしようとすると、娘から
「お客さん、何か言ってください」と言われます。
それで思わず「ごめんください」と言ってしまいました。
今どき“ごめんください”なんて死語だよ。

スーパーでもコンビニでも、無言で買い物ができますもんね。便利ですけど。

豊かになって、便利になってくると、人間関係は希薄になってくるのだと、
心理療法家でいらっしゃった河合隼雄さんの本に書いてありました。
「切符ひとつ買うのも、昔は駅員さんと顔をあわせて「京都一枚」なんて言っていたのが、いまは機械でポンと出てくるでしょ。買い物でまけてもらおうとしたら、お世辞のひとつも言わないといけなかった。ところがスーパーだったらもうまけてあるものねえ。」(Q&A こころの子育て ―誕生から思春期までの48章― 河合隼雄著)
せっかく子どもたちがお店屋さんごっこで買い物の練習をしても
現代では、会話として実践できる場所は限られているというわけです。

この本が刊行されたのは1999年。
冒頭で1997年に起こった神戸の事件に触れ、
子育てに悩む大人のために書かれた本であると説明されています。

目次を読むだけでも勉強になります。

Q1 豊かな時代なのに、なぜいろいろ問題が起きるのですか。
  みんながこころを使うことを忘れているからです。


Q3 子どもをちゃんと育てていけるかしらといつも不安です。
  どういう子育てがいいのか、ぼくにもようわかりません。


Q29思春期までに親としてやっておくべきことは何ですか。
  「ああおもしろかった」という体験を貯金しておくことです。


Q40覚醒剤が中学生にまで広がっているのはなぜですか?
  母性が弱かったら他の物に依存するしかありません。

こころを使うって、どうすればいいの? と思っても、
どんな場合にも当てはまる「こうすればいい」という答えはありません。
どうすればいいか考えることも、こころを使うことなんだと思います。




2015年2月27日金曜日

「おじいちゃんの声は金の鐘」

昨年の1月末に、テレビアニメ「サザエさん」で
波平さんの声を担当していた声優さんの訃報が報じられて
なんだか寂しい気持ちになりました。
昭和の親父の象徴のような波平さん。私にとっては雷親父のイメージでした。

しかし、サザエやカツオたちには威厳ある声で怒鳴っていた波平さんも
孫のタラちゃんにはやけに優しかったような。

そういえば、「ちびまる子ちゃん」のおじいちゃんおばあちゃんも、
「はなかっぱ」のおじいちゃんおばあちゃんも、
なんだかいい味出してるよな…。

私が子どもだった頃にはあんなに怒っていたうちの親も、孫には甘い。
なぜかしら?

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「おじいちゃんの声は金の鐘」(南日本新聞「南点」 平成26年2月28日掲載)

 
 島津日新公のいろは歌が、今人気の県民ヒーロー薩摩剣士隼人のパッケージでカルタになっている。平仮名が読めるようになった娘も隼人ファンの息子も、このカルタ遊びが大好きだ。平仮名が読めない息子は、読み札の絵と照らし合わせながら絵札を探している。もちろん、二人とも歌の意味は理解していない。今はまだ、「いにしえの道」を聞くだけだ(ちゃんと聞いているかもあやしいが)。しかし、カルタという遊びの中で、先人の教えを家族の声を介して聞くということに意味があるように思う。親しい人の声には文字情報以上の意味があるからだ。

 
 「声のなかにはね、かならず心が含まれておる」と、「お母さんの声は金の鈴―椋鳩十の母子論―」(あすなろ書房)にある。椋鳩十氏の晩年の講演や資料をまとめたこの本で、椋氏は幼いころに祖母や母から聞いた昔話や寝物語が、自分の情緒を育ててくれたと語る。感動と共に心に残る声は「人生の危険からガーンと落ちようとしたときに」金の鈴のように鳴り響き、子どもの心をグッと抱きとめてくれるというのだ。ユーモアを交えながら心を育てることの大切さを説く椋氏の言葉の一語一語にやさしさがにじむ。まるで孫たちの行く末を案じる一人の祖父のように。

 
 私自身は祖父母と交流することは叶わなかったが、娘と息子は両家の祖父母が身近にあり、私たち夫婦が仕事の間、祖父母の家で過ごすことも多い。おじいちゃんおばあちゃんというのは、親ほど近すぎず他人ほど遠くない絶妙の距離感で子どもたちに人生の機微を教えてくれるありがたい存在だ。

 
情緒を育てるのが祖母や母の声だとすれば、道理を説いてくれるのが祖父や父の声とはいえないだろうか。人生の岐路で正しい方向へ導く金の鐘のように。日新公のいろは歌を、おそらく日新公本人の声で学んだ孫たちが、戦国時代いかに活躍したかという史実は歴史好きの方なら良く知る話。歴史好きのおじいちゃんおばあちゃんは、ぜひ孫たちに語っていただきたい。


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2015年2月12日木曜日

「旅の力」

鹿児島で、春を告げるお祭りといえば初午祭。ですね?

このお祭りで鹿児島神宮に奉納される鈴かけ馬の踊りは、
話題の豪華列車ななつ星の乗客へのおもてなしとしても披露されています。

私としては、このお祭りで売られているポンパチをはじめ、
鹿児島神宮に納められている郷土玩具にも魅力を感じています。

そんな話をしたくて、「旅の力」というコラムを書き始めたのですが
書き終えた文章に「初午祭」というワードも「鹿児島神宮」というワードもなかった…。
どうして伊勢神宮になってしまったんでしょう?
これも何かのパワーかしら。

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「旅の力」(南日本新聞「南点」 平成26年2月14日掲載)

 テレビを見ていた息子が「あ、はっぱっけー!」と叫んだ。「違うよ、はっきゃっぺーだよ」と娘が訂正する。でも正解は「はっぴゃっけい」。画面に映っていたのは、800系新幹線つばめだ。どういうわけか、列車大好きになってしまった我が家の子どもたち。そんな彼らのあこがれの列車はもちろん、豪華列車「ななつ星」。

 クルーズトレイン「ななつ星in九州」の名は、九州の七つの県と七つの観光素材(自然、食、温泉、歴史文化、パワースポット、人情、列車)に由来する。「パワースポット」という単語がちょっと浮いているようにも思えたが、世界の古代遺跡や宗教施設が観光地となっている例を見れば納得だ。宇宙旅行さえ現実となりつつある時代にあっても、人は神秘なるものに心を寄せて旅をするものなのか。

 日本最大のパワースポットともいわれる伊勢神宮では、江戸時代に参拝ブームが起こったという。治安が安定し、街道が整備されたことに加え、奉公人が伊勢へ行きたいと言えば主人といえども止めることはできなかったというのが、民衆を旅に駆り立てた理由のようだ。自由が少ない時代である。江戸から歩けば往復およそ1カ月。普段の生活を忘れてリフレッシュするには十分な時間ではないか。「旅の目的は到着することではなく、旅をすることである」とはゲーテの言葉だが、パワーを求めて旅をするという行為そのものにも活力や癒しを与えてくれる力があることは明らかだろう。

 「いびゅたま、ゆふいんのり、ナナハチナナ…。乗りたいなー」。鉄道マニアの息子が、列車図鑑を見ながら呟いている。彼にとっても旅の目的は到着することではなさそうだ。うん、ななつ星は夢だけど、ななつ星の乗客になった気分で七つの観光素材を楽しむ旅ならお母さんも行きたいな。旅先では、お土産用のおもちゃにも注目してみたい。その土地ならではの扮装をしたキャラクターものも面白いが、素朴な姿のまま今に残る郷土玩具もまた、人びとの願いに力を貸してくれる「パワートイ」としての魅力を放っているのだ。


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2015年2月2日月曜日

「ねことねずみ」

毎年のことなのですが、
我が家では年末年始に家族そろってゆっくり過ごす時間は
ほとんどありません。

主人が営む小売店が、年中無休だからです。
年末年始はスタッフの方々もお休みなので
主人はいつもよりもハードスケジュール。

だから、お正月と言ってもおせち料理を食べようなんて気分にもならない。
だから作らない(言い訳)。

いっそ、世間とちょっとずらして旧正月を我が家の正月ってことに
しちゃおうかしら、なんて思うのも毎年恒例なわけです。

2015年の旧正月は2月19日だそう。
今日は旧暦でいうと12月14日。
今からでもおせちの手配は間に合いますね!
ちなみに、昨年の旧正月は1月31日でした。
そんなことを考えながら書いた去年1月31日の南点。

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「ねことねずみ」(南日本新聞「南点」 平成26年1月31日掲載)

 昨年末から新年にかけての休みは最大9連休だったらしい。そんな連休とは無縁の小売店を営む夫は、年末年始ほとんど家にいなかった。サービス競争の激化が進む昨今、元日から営業する店も珍しくない。便利ではあるけれど、そんな風潮に気ぜわしさを感じるのは私だけだろうか。

 夫不在の冬休み、子どもたちとボードゲームを楽しんだ。最近のお気に入りは、「ねことねずみの大レース」というドイツ生まれのゲーム。2歳の息子には難しいだろうと思いつつ彼のコマも用意してあげたところ、ねこが迫ってくるたびに大慌てでみんなのねずみを前へ前へと進めてしまう。もちろんルール違反なのだが、「ねこに捕まっちゃう!」と真剣に怖がっている様子がおかしくて、我が家では息子の行動もゲーム上のイベントの一つと捉えることにした。それに、2人より3人で遊んだ方がゲームは盛り上がるのだ。

 ドイツのボードゲームは「一つの文化」と言われるほどよくできている。運で勝敗が決まることもあるが、戦略を立てる面白さもあるのだ。本気で戦って5歳の娘に負けてしまうこともあれば、本気を出しすぎて娘を涙目にしてしまうこともある。彼女は負けず嫌いのようだ。いや、私が大人げないのか。

 1980年代に家庭用ゲーム機が登場したことで日本ではボードゲームやカードゲームが衰退していった。しかし、ドイツは逆にこれらのアナログゲームを発展させたのだ。なぜか?ドイツでは父親が家にいる時間が長いからとの説がある。残業する労働者は少なく、閉店法のおかげで小売店も早く閉まる。日曜日は一部の例外を除いて完全休業。これは、資本力に勝る大規模小売店から小規模小売店を保護するためのルールでもある。

 安息日という習慣が根付いている国だからできることなのだろうが、日本でも少しは真似できないだろうか。同業者同士がお互いを疲弊させるチキンレースに興じるよりも、家庭でボードゲームに参加した方が得るものは多いと思うのだけど。
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